樋口季一郎中将を知っていますか?
5000人以上とも言われるユダヤ人難民を救った日本人として、
杉原千畝(すぎはら・ちうね)
根井三郎(ねい・さぶろう)
小辻節三(こつじ・せつぞう)
この3人を紹介して来ましたが、恐らくこの3人を知ってるだけでも、あなたは相当な「命のビザ」通だと思います。
まだまだ杉原千畝でも知らない人はたくさんいます。私もまだまだです。
そんな私の拙い文章を読んで下さった皆さんには本当に感謝申し上げます。
でも、ここまでご紹介した以上、もう一人「結構な数」のユダヤ難民を救った人がいることを書かないわけにはいきません。
その人は軍人です。大日本帝国陸軍、樋口季一郎(ひぐち・きいちろう)といいます。最後の階級は中将でした。
中将というのは、その上にはもう大将しかいないエリート中のエリートです。
この人が、多くのユダヤ人を満州に入国させて、ナチスの追っ手から守ったというのです。
一説には「2万人」と言われていますが、この2万人という数字は異論があって、私もよく分かりません。
2万人というと、小さい「市」の人口くらいありますので、巨大すぎて、そんなたくさんの人を搬送するのは現代でも大変です。
ただ、2万人じゃない!と断定も出来ませんので〜後世に新たな資料が見つかるのを待ちましょう。
なんかちょっと話が
「救った人の多さ」
になって来たでしょうか?
ちょっと脱線しますと、
シンドラーのリスト
あの映画「シンドラーのリスト」のオスカー・シンドラーが救ったユダヤ人は1200人です。
対する、命のビザの杉原千畝は、
5000人〜6000人です。
数だけ見ると杉原千畝の方が多いですね。
でも数ではないのです。
オスカー・シンドラーは、ナチスの占領下のポーランドで工場を経営しながら、ちゃっかりナチスをだまして、そこで働いているユダヤ人労働者を虐殺から守ったのです。
ユダヤ人たちが収容所に移送されそうになると「ダメだよ、ウチの大事な熟練工なんだから」とナチスに掛け合って「送ってはいけない人リスト」を作って1200人のユダヤ人を守ったのです。
さらには収容所の所長、親衛隊将校のアーモン・ゲートと飲み友達になって、酒やワイロですっかり信用させて、自分の工場を強制収容所の外に作ることに成功します。そこにユダヤ人住宅まで作ります。
オスカー・シンドラーという人は、元々すごい遊び人でプレイボーイだったらしいのですが、その方面の才能を最大限に発揮してユダヤ人を守ったのです。
人の才能とはいろんな活かし方があるものです。すごいです。
一方、日本の杉原千畝、根井三郎、小辻節三、らは生真面目に、そんなことは人道主義に反する!とユダヤ人救出に尽力した気骨の人です。
すいません、脱線でした。
というわけで、2万人というのは現実味がありませんが、今後どんな資料が出てくるかは分かりませんので、未来の歴史学者に任せましょう。
オトポール事件
1938年(昭13)18人のユダヤ人難民が、極寒の中、ソビエト領オトポール駅に立ちすくんでいました。
※現ザバイカリスク駅
彼らはなんとか、満州国に入り満州里駅から列車に乗って、上海の共同租界に行くことを目指していました
open street map
しかし、 満州国への入国が下りず、寒さと飢えで震えていました。
満州国政府は、ドイツとの関係が悪化することを恐れて、ユダヤ人難民の入国を拒否していたのです。
このままではユダヤ人難民たちは死んでしまう。凍死してしまうか餓死してしまうか?
ギリギリの状態に追い込まれたままオトポール駅で足止めされていたのです。
この状況を知った極東ユダヤ人協会の代表アブラハム・カウフマン博士は樋口季一郎に助けを求めます。
相談を受けた樋口は、ドイツと国際問題に発展することもモノともせず、すぐに満鉄総裁の松岡洋右(まつおか・ようすけ)に電話。
ユダヤ人救助のための列車を動かします。
さらに樋口は、ユダヤ人難民に対し、食料、衣類、燃料、医療、などを提供し、そして上海へのルートも手配しました。
樋口の即決が、寒さに凍えるユダヤ人難民を救ったのです。もちろんナチスドイツからは猛抗議が来ました。
しかし樋口季一郎は毅然としてこう反論しました。「日本とドイツは同盟国であるが属国では無い」と!
やがて、この秘密の抜け道はユダヤ難民の間で広まり「ヒグチ・ルート」として知られるようになり〜
かなりの数のユダヤ人たちがこのルートを通ってナチスの手から逃れて行ったと言われています。
ただ、このルートを使って逃れたユダヤ難民の正確な数が分からないのです。
80人くらい?
いや100人〜200人だろう
という説
4000人くらいだろうという説
あるいはもっと?
もう色々あります。
とにかく後になって誰かが「盛って」2万人と書きかえたようで、でも実際2万人を救ったという人もいますが、これはまだ分かりません。
ナチス・ドイツが厳重に抗議をしてきたくらいですから、外交上の配慮があったとも考えられます。
ナチスがうるさいから正確なユダヤ人難民の数は、わざと記録に残さなかったのでしょうか?
いわゆる忖度?
分かりませんが…
ヒグチ・ルートによってかなりの数のユダヤ人が助けられたのは間違い無いでしょう。なぜなら、、、
イスラエルの「黄金の本」にはこの時の樋口季一郎の功績をたたえ「樋口季一郎」の名前が刻印されています。
助けてもらった側のイスラエル人が歴史に残してくれているのです。
樋口季一郎のお孫さん
突然ですが、話はガラッと変わって、樋口季一郎のお孫さんの話をします。
樋口季一郎のお孫さんは、なんと明治学院大学の名誉教授、樋口隆一さんで日本では音楽の指揮者、バッハの専門家として有名な人です。
このお孫さん(といっても70代ですが)が2018年、実際にイスラエルにあるその「ゴールデンブック」を見学しに行ってます。これがその時の記事です。
Keren Kayemeth LeIsrael
Jewish National Fund より引用
祖父樋口季一郎の名を指差す樋口隆一教授
最近分かった樋口季一郎
さらに、北海道の石狩市に、樋口季一郎記念館が出来ました。2020年の九月ですから、つい数ヶ月前ですね(2020年11月20日記)なんで北海道に記念館があるのか?また次回に書きますね。
まだまだ、これからの研究が待たれる樋口季一郎の功績ですが、人道主義的な行動を取った人が日本軍にもいたことは、新しい発見ですね。
ぜひ覚えておいてください。
樋口季一郎
ひぐちきいちろう