根井三郎を知ってますか?
この男、気骨漢ナリ
私も最近まで知りませんでした。多くの日本人は2015年まで根井三郎についてほとんど知りませんでした。彼がいなければユダヤ人難民たちはどうなっていたでしょう?
1940年昭和15年、日本を遠く離れたリトアニアで杉原千畝が「命のビザ」をせっせと配給し続けていました。どんどん押し寄せてくるユダヤ難民に外務省は業を煮やしていました。
押し寄せてくるユダヤ難民
外務省は杉原千畝に圧力をかけるが、杉原はのらりくらりと言い訳ばかりを送って来て、ビザの発給をやめない。その間にも、どんどんユダヤ難民がやってくる。
いらだつ外務省は、今度はウラジオストックの領事に通達を出します。
ウラジオストックで、ユダヤ人に足止めをしようと考えたのです。
なぜなら、ユダヤ難民たちは、リトアニアから、モスクワへ移動し、そこからシベリア鉄道でウラジオストック(浦塩)にやってくるしか道がなかったのです。
ウラジオストックでユダヤ難民をストップさせろ!
(注意)今でも、シベリア鉄道でモスクワ〜ウラジオストックまでは1週間ぐらいかかります!
多くのユダヤ難民たちは、お金もない、次の出国先も決まっていない、受け入れ先も決まっていない、そういう人がほとんどでした。
そのような入国の基準を満たしていないユダヤ人は、ウラジオストックで追い返せ!と外務省はウラジオストックの領事館に通達を出しました。ユダヤ難民たちを再審査せよ、条件不備のものは送り返せ!と
ところが!
ここに、気骨ある漢(おこと)がいたのです。
根井三郎(ねい・さぶろう)
根井三郎は、外務省からの通達を「国際的信用から考えて面白からず」と言って拒否!
外務省の命令を突っぱねたんです。
それどころか、杉原のビザを持つユダヤ人難民を、福井県敦賀行きの船に乗せて入国させました。
さらに、ビザを持たないユダヤ難民もいましたが、その人たちに、根井の独断で渡航証明書や通過ビザを発給したのです。
この温情に、ユダヤ人たちはミスターネイ!と呼んで、生涯、根井三郎のことを忘れませんでした。
本当に怖かったことでしょう。ビザもなくシベリア鉄道に10日以上乗っていて、もしウラジオストックで追い返された、どうしよう?そこでナチスに引き渡されたらどうしよう?
不安で夜も眠れなかったことでしょう
きっと根井三郎は知っていたのです。ナチスのユダヤ人たちに対する迫害を。
このまま彼らをドイツ人に渡してはならないと、分かっていたのでしょう。
そして、杉原千畝のというリトアニア領事が殴り書きしたビザの意味を見抜いたのでしょう。
この漢、痛快なり!
杉原さん!命のバトンは受け取りましたぞ!!!
不思議な縁ですが、根井三郎と杉原千畝は、満州にあった同じ日露協会学校に通っていました。根井三郎は、杉原千畝の二年後輩です。二人は知り合いだったのでしょうか?それは分かりませんが、、、
根井三郎は、戦後、外務省から横浜税関→入国管理局と職を変え、1992年3月31日まで生きていました。(享年90)。
しかし、根井三郎はユダヤ難民を助けた理由を語ろうとしなかったため、ほとんどの日本人はつい最近まで根井三郎の功績を知りませんでした。故郷(宮崎県)でもその偉業は知られていませんでした。
2015年、おそらく公式の場で初めて根井三郎のことが紹介されます。
福岡市アジア美術館で開催された「戦後70年記念事業 人道の外交官杉原千畝と命のビザを繋いだ日本人たち」展で根井三郎のことが世間に紹介されました。
根井三郎が発給したビザはソビエトの記録上にはあるものの、そのビザの実物は確認されていませんでした。
しかし、今年2020年(令和2年)5月に著述家の北出明氏によって、アメリカへ亡命したユダヤ人の子孫が根井発給のビザを持っていることが判明したのです。
私たちは、こんなにも多くの人の命を救ったヒーローを、全く知らずにいたのです。
日本人として、このような正義の人がいたことを、是非みなさんに知ってほしいです。
実は、まだまだいるのです。4000人とも5000人とも言われるユダヤ難民を救った、名もなきヒーローが。
もうテレビはダメです、テレビなどはこういう立派な日本人を取り上げませんので、ネットで知った方、ぜひ根井三郎のことを拡散してください。心からお願い申し上げます
戦前の日本はナチスと一緒だったというデマに惑わされないでください。
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