知ってますか?今から64年前「わんわん物語」が日本で最初に公開されました。ディズニーのわんわん物語1956年(昭和31)公開です。ちゃんと日本語吹き替え版が作られました。では、どうやって声優をキャスティングしたと思いますか?
まだ「声優」がいなかった時代です!
声優オーディションなんて当然ありません
ディズニー本社はこのために、ある男を日本に派遣したのでした。アメリカのディズニー本体からキャスティングのプロデューサーが日本にやってきたのです!
彼の名前はジョン・カッティング。通称は「ジャック」だったと言います。キャスティングできるってことは、カッティング氏は日本語が分かるバイリンガルだったのかな!?と思うでしょ?
いいえ、違います。
じゃあ今みたいに声優オーディションを行なったと思いますか?違います。くり返しますが、声優はまだいませんでしたし、そんな職業がまだない時代でした。
執念のキャスティング!
アメリカからやってきた男、ジョン・カッティングは、今聞くと、マジで?という、びっくりするようなやり方で声優を選んでいきました。かなりスゴいやり方です。
彼は日本に着くと、日比谷公園の前に立つ帝国ホテルに滞在しました。もちろん今も同じ場所に帝国ホテルはありますが、当時は建物が違います。あの歴史的な建築家フロンク・ロイド・ライトが設計したすばらしい建物がまだ建っていました。
その一室に荷物を下ろすと、ジョン・カッティングはほとんど外に出ませんでした。ずっと部屋にこもりっきりなのです。変でしょう? 部屋の中で何をやっていたかというと、、、
彼はラジオを聴いていたのです。一日中!朝から晩までラジオを付けっ放しにして、じっーと聴いていたのです。
必死に声を探し出す!
そして、メモを取り出し、
7時08分頃に出ていた声は → トランプ役
12時41分頃に出ていた声は → レディー役
18時01分頃に出ていた声は → ブルドッグ役
というぐあいに、一日中聴いているラジオの声から判断してキャスティングをやったのです。
ものすごい執念!
ものすごい執念!
ものすごい執念!
一日中、何を言ってるのか分からない言葉のラジオをずっと聴いて、そこから映画のキャスティングをすると言う離れ業をやってのけたのです。ありえん!でしょ!?
私もタイ・プーケットで一日中、何を言ってるのかさっぱり分からない放送(テレビでしたが)を見続けたことがあります。スコールで外出できなかったためですが、苦痛以外の何物でもありませんでした。あの作業で映画の吹き替えをキャスティングするなんて、考えられません。
ジョン・カッティングはそれをやり遂げたのです。
突然聞こえて来たダミ声
あるとき、ジョン・カッティングが「ん、なんだこの声は!?」とラジオから流れてくる声に聞き耳をたてました。あまりにも特徴ある声が聞こえてきました。
誰だ!?この声は?この声の人をキャスティングするぞ!
落語家さんでした!
よし!この声をトラスティ役にしよう!とことで、話はまとまり、落語家、鈴々舎馬風(れいれいしゃ・ばふう)師匠が選ばれました。鈴々舎馬風(先代)さんはディズニー映画の声優としてしっかり歴史に名を残しています。
またあるとき突然ラジオから聞こえて来た「ダミ声」にジョン・カッティングは釘付けになります。
誰だ!?このダミ声は!?スゴい声だな〜この声は。声がスゴいだけじゃなく、語り口が獰猛(どうもう)だ!怖さがある。そうだ、この人をブルドッグにしよう!よしブルドッグはこの声だ!
と彼が選んだ声は、なんとあろうことか!?のちに社会党の委員長になる浅沼稲次郎(あさぬま・いねじろう)さんでした。ちょうど国会中継で政府に怒鳴りまくっている時の声でした。
しかしこの人選は…ちょっと、、、、日本側のスタッフは青くなりました。この人は俳優でも落語家でもないんです。政治家なんです。しかもかなり有力な(昭和30年代、社会党はかなり人気があったのです)
うーんダメか?でも、あきらめるなよ。政治家でもなんでもいいから、交渉してみろよ!?と迫るジョン・カッティング
しかし、当時の日本人の感覚では、有力な政治家に、それも漫画映画の吹き替えをやってくれ!とはとても頼めませんでした。それでも、アメリカから来たプロデューサーの言うことなので、とお願いをしに行きました
でもやはりダメでした。
というわけで社会党、浅沼委員長のブルドッグは、なかったことに、、、
なるはずだったのですが!!!、なんと、のちにラジオ版の「わんわん物語」でそれは実現したのです。
浅沼さんも犬が大好きだったので、出演を了承したとのことですが、当時は、アニメや漫画というものが、今みたいに高く評価されている時代ではありませんでした。アニメなんて子供が見るもの…として一段下に見られていた時代でした。
めでたしめでたし!
これから4年後、浅沼委員長は日比谷公会堂で演説中に、飛び込んで来た少年に刺されて亡くなりました。61歳でした。その頃、社会党や共産党もぐんぐん力をつけてるときでした。浅沼委員長が生きていたら日本の歴史はどうなっていたでしょうか?。是非もう一度、教科書で見ておこう!
なんだかんだで、日本語版「わんわん物語」は1956年昭和31年に日本で公開されました。
日本側のスタッフ三木鶏郎(みき・とりろう)さんの功績も多大なるものがありました。
何と言ってもあのむずかしいディズニー映画の音楽、そして歌!を日本語に置き換えたのですから大したものです。ハリウッドの一流のスタッフが総出でつけたコーラス、音楽、を日本語に置き換えてあのメロディーにはめ込んだのです、、、、天才です。天才としか言いようがありません
ちなみにこの三木鶏郎さんの下で働いていたひとりの若者がいました。この若者が、いつもジョン・カッティングさんのキャスティングを書いたメモを取りに帝国ホテルに来ていました。つまり「お使い」の若者です。
この若者こそ、なんと永六輔さんです!
当時まだ帝国ホテルは、ほとんどの日本人にとっては「入れない場所」の一つでした。ちょっと前まで米軍に接収されており日本人は立ち入り禁止。永さんがお使いに行ってた頃も、アメリカGHQの御用達みたいなホテルでした。
メモを取りにいく「お使い」でしたが、帝国ホテルに入れるぞ!と若き日の永六輔青年はルンルン気分で日比谷公園を走り抜けていたのでした。
注)ディテールに関しては諸説ありなので、物語としてお読みください。